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2005年 12月 24日
サンタクロース
何年か前にHPに書いたことですが、クリスマスシーズンになると思い出すので
もういちど紹介します。
陶芸教室に通っていたころに先生から聞いた話。
小学校低学年の息子さんが学校で話したそうです。
「ウチにもサンタさん来たよ」
同級生の反応は・・・・
「オマエまだ知らないのかよ。サンタクロースはお父さんなんだよ」
息子さんは、ものすごく驚いた。
「それからオレ、妙に尊敬されてるんだよね」
先生は、意味の分からないことを言う。
つまりこういうことらしい。
「サンタクロースはお父さんなんだよ」
と友達に言われた息子さんは、こう解釈した。
「お父さんは、サンタクロースだったんだ!
みんなにプレゼントを配る、あのサンタクロースは
ウチのお父さんだったんだ!」
お父さんの正体を知った彼は、知っていることを本人に打ち明けることもできず
尊敬のまなざしで見るようになった、というわけです。
あれから7、8年が経ちました。
先日、先生の家に電話したら、声変わりした息子さんが出ました。
みなさま、いいイブを。
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何年か前にアメリカの知人からいただいた写真を載せます。
ちょっと重い画像です。一瞬、サンゴ礁の海のようですが・・・・・。
さらに拡大もできるのでお楽しみください。
著作権が不明で心配なので、短期掲載にします。
※画像は1月5日削除しました。
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by yasuhikohayashi
| 2005-12-24 17:12
2005年 12月 20日
忘れ物
忘れ物係りで探してもらいましたが、まだ届いていないとのことで、
今日もう一度、自宅の最寄り駅で尋ねてみた。
忘れ物は黒のナイキのデイバッグ。中身は、デジカメと黒のポーチ。
聞かれるままに応えて、駅員さんはパソコンで調べていました。
しばらくして「千葉の忘れ物センターにあるのが、それらしいですよ」。
ということで電話で問い合わせてくれて・・・・・。
名前が分かるものが入っていたので、僕のだと判明。
「じゃ、21日までの保管ですね」と駅員さんは電話の向こうとやり取り。
その間に、初老のご婦人がやはり忘れ物のことで顔を出されて、電話のやり取りを聞いていました。
「この駅で受け取れればいいんですけど、いまだに保管してるところまで取りにいかなきゃいけないんですねぇ」
僕がそういうと、彼女も
「そうですよね。最寄り駅で受け取れるようにすればいいのに」と同調してくれました。そのこともあって、電話が終わった駅員さんに僕はちょっと強気に言いました。
「わざわざ、取りに行かなきゃいけないんですか。そういうの昔とちっとも変わりませんねぇ。宅急便とかで送ってもらえるようにはならないもんですか?」
「はい、それはできません。現金が入ってますから」
「え、お金?」
「はい、21万円」
「ギャ!!」
そうだったのだ。大金が入っていたのだ。
父親の入院費のつもりで妻から渡された封筒を持って倉敷の病院に行き、
渡そうとしたのに、来てくれただけで良いと言って、母親が受け取らず、当座のものだけを置いてきたのだった。
こっちに戻って、別のところに仕舞ったとばかり思っていた。
銀行の封筒に入ったあれを、ポーチに入れてずっと持ち歩いていたとは・・・・。
出てこなくても、被害はそれほど高くないデジカメだけだと思っていた(それだって大損失なのだが・・・・)。
「現金が入っていなければ、宅配便でお届けできるんですけどねぇ」
あちゃー、なんということ。強気にJRのサービス批判めいたことまで口を滑らせてしまっていたのだ。
「ありがとうございました!助かりました!」
僕はキヲツケの姿勢になって、最敬礼した。
大金が入っていることを忘れていたのは、良かったかもしれません。
そうと知っていたら・・・・昨夜から今日にかけて胃が痛くなっていたはず。
明日、千葉駅に取りに行きます。
と、ここまで書いて投稿しようとして、考えた。
ブログは公道に張り出すようなもの。
もしも、悪い人がいて身分証を偽造して、印鑑も持って先に受け取りに行かれたら・・・・・。
明日、受け取ってから投稿することにします!
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今朝、健康保険証と印鑑を持って千葉駅まで受け取りに行ってきました。
8時に着いて改札で尋ねると、なんと忘れ物の部署は9時からとのことで、
コーヒーショップで待つことに。
9時ちょうどに行き、ナイキのデイバッグに対面。
現金を確認してくださいと言われて、ポセットを開けると・・・・・
ギャ!運転免許証まで出てきたよ!
今朝は起きる前に夢を見た。
夢の中で朝刊を開くと、社会面にこんな記事が。
「忘れ物のバッグに大金、本人気づかず」
どうせオレのことをバカにした内容だろうと、恐る恐る読みかけたところで目が覚めた。
ということで、きょうは朝からくたぶれました。ふう。
それにしても、総武線の錦糸町で下車したあと、電車は終点の横須賀まで行って。
網棚に荷物が載ったまま折り返して、東京駅をすぎて千葉駅まで行ったわけです。
その間、持って行く人がいなかったというのは・・・・・たいへんなことです。
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by yasuhikohayashi
| 2005-12-20 11:13
2005年 12月 16日
本田美奈子さん
病床の彼女に復活を願って曲を提供しようとしたのが、井上鑑(あきら)さんだったのを知りました。
井上さんには、あるCMの音楽をお願いしたことがありました。
録音の途中で、自分でイメージしたのとはまるで違うので、音楽プロデューサーとスタジオの外で話しました。
「これは違います。こもまま出来上がってもまったくイメージが違うんです」」
プロデューサーの顔色が変わったように思われました。
「全部できてから聴いて判断してもらえまえせんか」と彼は言いました。
「でも、この音楽は違いますから」
僕は、このままにいても意味がないからと思って、スタジオの外に出ました。
だいぶ時間が経ってから音楽プロデューサーが呼びに来ました。
「出来上がったので聴いて判断してください。」
僕は、スタジオの外にいる間中、今をときめく作曲家にどう言えばできたばかりの曲をボツするのに角が立たないか、そればかり考えていました。
そのCMは、初めて自分で演出までしたものだったから、愛着もひとしお。
サラリーマンとしてではなくて、演出家としてモノ作りの現場を指揮している意識もありました。自意識過剰だったのかもしれませんね。
できあがった井上さんの曲を聴きました。
・・・・参りました。映像にどんな音楽を当てればいいか。
演出の自分よりも計算し尽くしていることを認めないわけにはいきませんでした。
「いいですねぇ」
僕に言えたのは、それだけでした。
じっさい、参りました。
パーカッションの部分の録音段階で、これは違うとわめいていた自分がなんとも恥ずかしかった。
表現の現場では、自分よりも深く考えた人間には勝てません。
コラボレーションは、期待を上に裏切ってくれる人に出会える楽しさがあります。
あれから15年ほど経っています。
見るのはちょっとつらいな、と思って録画にして
でも途中から点けたテレビですが、
井上さんの映像のあたりから、いろんなことが思い出されてきてTVを消しました。
しばらくあとにビデオを見ることになるでしょう。
あの井上さんは、彼女に再起のための音楽を提供しようとしていた。
音楽って、いいなぁ。
音楽はこころのすぐそばにいるんだなぁ。
・・・・・同じ表現という意味で、陶器にはいったい何ができるんだろう。
そんなことを思いながら書いています。
ああ、なんか書きすぎました。
朝になったら恥ずかしくなって消すかもしれませんねぇ。
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by yasuhikohayashi
| 2005-12-16 23:01
2005年 12月 15日
ふたつの炉、「身任窯」と「業当窯」。
池といっても、ほんらいはセメントを練るためのもので、70センチ角ほど。
一昨年、ホームセンターで買って来てメダカを飼っています。
今年は、すごく増えて、チビがいっぱい泳いでいましたが、
氷が張って、メダカもデンジョコ張ったと思うべ、かなぁ。
今日は僕の窯を紹介します。
10年前に博多に転勤という話が出たとき、窯のある夢の工房ができるなら、と
単身赴任する決め手になりました。
マンションの10階のLDKで5年間苦楽をともにした糟糠の電気炉。
梅雨のころには洗濯物がよく乾き、
真冬の早朝には蓋をあけて、暖をとったりしてたなぁ。
今年、オーバーホールしたばかり。今後ともよろしく願います。
この窯には名前がが付いています。
「身任(しんにん)窯」。
身を任せる・・・自分が精魂こめて作った、いわば自分そのものを、窯に任せるという
気持ちを込めて名付けました。

なんていうのは大ウソ!
「単身赴任」を決心したときの窯なので、2文字を取って「身任窯」。
もうひとつの窯は、ガス炉です。
これにも名前があって「業当(ぎょうとう)窯」。
26年勤めた会社を辞めたあとに工房に来ました。
製陶という業に当たる覚悟を、この名に込めたつもり・・・。

というのも大ウソで、失業手当が、けっきょく・・・あのその・・・。
やはり、2文字もらって・・・・。
「身任窯」と「業当窯」。
いまでは、やわらかい雰囲気を狙いたいときには電気、
かっちりとしたものはガス、という使い分けをしています。
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by yasuhikohayashi
| 2005-12-15 16:58
2005年 12月 09日
本決まり
編集部の会議で決まったそうです。
4冊目になりますが、それぞれが、未熟な部分も含めてそのときの自分だったなぁ。
東京を離れて広告会社にいる意味があるのかな・・・・などという思いも感じながら
それまでの仕事や仕事で出会った人たちのことを思い出して
総決算のような気持ちで書いた最初の本「CMプランナーの仕事術」洋泉社(97年)。
自分としては「CMプランナーからの手紙」というタイトルにしたかった。
最初で最後の本、というつもりでした。
そのとき陶芸のことも書いたんだけど全部ボツ。
ま、当然といえば当然です。CMの本なんだから。
完全燃焼して書いたつもりでしたが、しばらくすると、やはり陶芸のことが書きたくなった。
陶芸歴7年目で書いた「週末陶芸のすすめ」晶文社(98年)。
単身赴任が終わろうとするころ、
「陶磁郎」の編集部の担当の女性と電話で雑談していたのがきっかけで書くことになった
「週末陶芸家になろう!」双葉社(01年)
あれから5年ですね。
また書きたいなぁという気持ちがフツフツとしてきました。
「週末陶芸のすすめ」のときの編集者に相談したら、優秀な編集者がいるといって紹介されました。
陶芸関係の本をたくさん手がけている方なので、安心して手のひらの上で思いっきり泳いでみようと思います。
出版社は「へんないきもの」や「ふしだらかしら」という本で評判のbasilico(バジリコ)。
自由な雰囲気の新しい出版社です。
今回は「週末」が外れて「工芸家」(自称?イヤイヤ「駆け出しの」の言ってくださりませ)
という立場からになります。
どんな形になりますか。これから方向性について編集者と話すことになります。
ま、肩の力を抜いて、これから数ヶ月、楽しもうと思っています。
いつも、この始まりのころがいちばんワクワクするんですよ。
書くのは楽しい作業です。今まで過ごした時間を、もう一度反芻して楽しめるんですから。
「一粒で二度おいしい」という、なんだったかな?森永のミルクキャラメル?の昔の広告コピーのような気持ちです。
え?小説のほうはどうなった?
書き始めましたけど、どうなりますやら。
(この2行についてはコメント不要!)
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by yasuhikohayashi
| 2005-12-09 11:23
2005年 12月 05日
ダイエーの撤退
結婚してすぐに越して来て以来、休日には夫婦で通い、バギーカーを押して通い、
単身赴任のための洗濯機やら冷蔵庫やらを買ったのもここでした。
娘が生まれてすぐ、郷里に帰らず初めて新年をこちらで迎えたときのこと。
ダイエーの初売りの日。地下の食料品売り場で買い物をしていて、妙にお店の人が丁寧なことに気が付いた。初売りで気持ちがあらたまっているんだろう、ピンと空気が張りつめている。
それにしてもなにかヘンだ。売り場の人の表情がカタイ。目線が、すぐ前にいる僕なんか目に入らないような不思議な泳ぎ方をしたりする。そのうち直立不動の姿勢になった。異様な気配を感じて後ろを振り向くと、中内オーナーがいた。
新年に優良重点店舗を視察していたんですね。お付きの人たちは、幹部と店長だったのでしょう。カリスマの威厳をまざまざと見た思いがした。
店の人の極度に緊張しながらのふしぎな笑顔が忘れられません。
あれから、21年です。
ダイエーの最終営業日に、投げ売り目当てに行きました。
でも、いらないものは要らないんだなぁとあらためて思いました。
けっきょく買ったのは、1個10円のハンガーを5個、いくらだったか陶芸に使うサランラップ
(これはロクロで挽いた皿などの縁に巻いて乾きすぎるのを防いだりで、けっこう使います)
を5個、ヘアトニックを1本・・・・それだけ。
もう早々に幕を張って閉めた店舗も多かった。自転車屋さんもそうで、フロアはきれいに片付いて、移動用のカートに載せてあるのは店で使っていた道具類だけ。
そのなかに、タイヤに空気を入れるためのコンプレッサーがあるのを見つけた。
釉薬を吹き付けるのにいつも使っているコンプレッサーは、ちょっと出力不足。
残って片付けている人に声を掛けてみた。
「あの・・・そのコンプレッサーは処分しませんよねぇ」
「しません!」
じつに簡潔な返事。
店を閉じるという愉快ではない場にやってきたハイエナに、しごく妥当な反応でした。
逆の立場だったら、暴れていたかも・・・・。
翌日、通りかかると、大型クレーンが来ていて、
外壁に掛かっていた「夜11時まで営業」の大きな垂れ幕もはずされたあとだった。
クレーンの人に、「垂れ幕はどこに行ったんですか?」と尋ねると、
「さぁ、あっちに事務所があるからそこで聞いてください」とのこと。
「つくる陶磁郎」の最新号にも書いたように、最近、「タタラ板製造機」を知人から譲ってもらった。粘土を両側から挟むための丈夫な布が必要で、廃棄するノボリや垂れ幕をくれないかと頼んで歩いたとき、ダイエーの垂れ幕にもじつは目をつけていたのである。
事務所に入ると、守衛室があって多くの人がいた。
降ろした垂れ幕を処分するならいただきたいのですが、誰と話せばいいのかと問うと、みんなで相談になった。
「垂れ幕の業者の人が、もう持って行ったと思いますよ」ということなので、
垂れ幕を管理しているダイエーの責任者の方と話せませんかと食い下がると、
「責任者の人は、いま忙しくてつかまらない」とのこと。
そりゃそうだろう、こんな火事場ドロボーのような相手にかかずらわっている場合ではない。
おとなしく引き下がった。
あの長くて大きな垂れ幕、風雨にさらされてもびくともしない逞しさ。
僕の工房に来れば、余生を陶器作りして楽しめたのになぁ。
今日は一人鍋するために、駅の向こうのヨーカドーまで遠征。・・・・けっこう遠いよ。
ダイエーのあとに何が入るかまだ決まっていません。
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by yasuhikohayashi
| 2005-12-05 22:58
2005年 12月 02日
屋久島のツワブキ
今日から歩く練習だそうです。
ブログのコメントで、またメールでのお心遣い、ありがとうございました。
倉敷の病院から久しぶりに自宅に戻ると、ベランダにツワブキの花が満開でした。
行くときにはまだ蕾でしたが、一気に咲きました。
十二月の初旬に咲くこの花には、ちょっとした思い入れがあって、
毎年心待ちにしています。

博多に単身赴任した翌年の春、96年ですね。
小学校を卒業した娘と屋久島に2人旅しました。
中学に入ると、親父をうるさがるだろうから最後のチャンスと思いました。
頼りになるのは父だけという環境を作ろうというコンタン。
自宅から博多に飛行機で行き、赴任先のマンションで一泊。
翌朝屋久島へ。
という予定が、寝過ごして直行便の飛行機に間に合わず、
鹿児島で一泊という予定外のことも起きて、父のイゲンは早くもグラついたのであります。
民宿に4泊ほどしたと記憶しています。
あいにく雨に降り込められ、縄文杉を見に行った以外は行くところもなく
ふたりで話ばかりしていました。返ってそれは良かったです。
漁師のおじさんが持ってくる、さっきまで泳いでいたサカナがメインディッシュというメニューで
「トビウオのお刺身がおいしかった」と21になった娘は今も言います。
雨の中クルマを走らせていたとき、海岸まで降りてみようということになって
浜辺でクルマを停めました。
ツワブキの群落があって、「採っちゃだめだよ」と娘は止めましたが
なにか記念になるものが欲しくて、ビニール袋に一株入れました。
いま思えば、ほんとにいけないことですね。
そのツワブキ、本土の楚々とした風情のものと違って、葉も厚手で大ぶり。
そして秋になるとグングン茎をのばして、冬の到来のころ見事な花を咲かせます。
博多の単身赴任のマンションで、ちょうど人恋しくなるころに満開になるこの花には
ずいぶん慰められました。
なじんだ博多をそろそろ去ろうというとき、この花の実が綿毛になって飛び始めました。
僕も、東京に戻るときが来たんだな、と実感しました。

そして、今年も咲きました。
僕のところに来て、丸10年になります。
増えた株から一株を返しに屋久島に行こうかな。
娘とふたり旅というのは・・・・行ってくれないだろうなぁ。
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by yasuhikohayashi
| 2005-12-02 13:25
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